2024.02.12 10:48ハリー・クレッシング 『料理人』 丘の上の古城プロミネンス城が見おろすイギリスの平和な田舎町コブに、不気味な男がふらりと現れる。背が人より頭一つ高く、まるで死人のように痩せて、着ているものはすべて黒。重厚壮麗なプロミネンス城をなめるように見あげるその男の名は、コンラッド。ロンドンの著名人からの紹介で、町一番の大富豪ヒル一族のお屋敷専属料理人として雇われたのだ。彼が作り出す、舌もとろけんばかりの得も言われぬ美味しい料理は、すっかり屋敷の人々を魅了する。しかも不思議なことに、コンラッドの料理を食べ続けると、太った人はみるみる痩せ始め、痩せた人は次第に太り始めるではないか。おまけに、料理だけでなく巧みな話術を駆使し、家事、雑事もそつなくこなすコンラッドの前に、使用人たちはおろか、雇い主のヒ...
2024.01.15 08:40瀧浪貞子 『平安建都』(集英社版『日本の歴史』⑤) 「いづれの御時にか、女御、更衣あまた候ひ給ひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり」。今話題のドラマ「光る君へ」の主人公紫式部が著した『源氏物語』の冒頭、「光る君誕生」のシーンである。 「女御」「更衣」とは天皇のキサキのことである。天皇のキサキについては、当時の法律(律令の後宮職員令)で皇后・妃・夫人・嬪の四階級が定められ、それぞれ順に一人・二人・三人・四人の定員があった。従って、天皇は、法律上この十人以上のキサキは持てなかった(あくまで定員で、必ず十人を娶らねばならないという訳ではない)。ところが天皇がキサキ以外の女官を見初める「内寵」も現実にはあって、桓武帝や嵯峨帝はことさら内寵が多かった。ややこしくなったので、増え...
2023.06.26 07:43祖父江孝男 『文化人類学入門』 文化人類学という学問分野がある。「世界のさまざまな民族のもつ文化や社会について比較研究する学問」(本書2p)で、できる限り具体的、実証的にとらえて研究するためにフィールドワーク(実地調査)という方法をとるところに特徴がある。本書はこの文化人類学という学問について、丁寧かつ平易に解説した好著である。人の生物学的形質を主たるテーマとする自然人類学や有史以前を扱う先史考古学など近接する学問との違いや、民族学、民俗学といった概念との関係性を明らかにした上で、研究対象であるヒト(人類)とは何か、文化とは何かについて、手を抜かずにきちんと説明してくれているのが素人には大変ありがたい。冒頭、ヒトが他の動物と決定的に異なる点はどこかを明らかにしていくくだりは実に興味...
2023.04.29 06:33ルイス・サッカー 『穴 HOLES』 懸命に生きているのに何故かツイてない少年スタンリー・イェルナッツ(Stanley Yelnats:前からでも後ろからでも綴りが同じ!?)。ある日の放課後、学校の帰り道で、なぜか頭の上にスニーカーが落ちてきた。その瞬間、古いスニーカーの再利用の方法を研究している父さんの姿が思い浮かんで駆けだしたら、逮捕された。その靴は野球の超有名スター選手のもので、競りにかけてホームレスの援助金にしようと避難所に展示されていたところを盗まれたものだったのだ。必死の弁明もむなしく、裁判官から卑劣と断じられたスタンリーは、無実の罪で更正施設に放り込まれてしまう。送られたのは、カッチカチに干上がった焼ける大地が広がる砂漠のど真ん中にある“グリーン・レイク・キャン...
2023.03.19 06:27A・A・ミルン『赤い館の秘密』 ロンドンから少しばかり列車に乗ったのどかな田舎にあるお屋敷、人呼んで“赤い館”。とある昼下がり、赤い館で突如銃声が鳴り響く。親友のビル・ベヴリーが赤い館に滞在していると聞いてたまたま訪ねて来たアントニー・ギリンガムは、銃声のした部屋のドアを激しく叩く男と遭遇。二人で窓を破ると、そこには眉間を撃たれた男の死体が横たわっていた。死んでいたのは、館の当主マーク・アブレットの兄ロバート。オーストラリアに出奔して以来長らく音信不通だった粗暴でやくざなロバートは、迷惑がるマークの動揺をよそに、この日15年ぶりに戻ってきたところだった。しかも、密室状態の部屋からは、そこにいたはずのマークの姿が煙のように消えていた。地元の警察が出動するが、マークの行方は杳として知れ...
2022.12.20 14:00ネビル・シュート『パイド・パイパー』 第二次世界大戦がまだ膠着状態にあると思われた1940年4月。イギリスの老紳士ジョン・シドニー・ハワードは、戦争で受けた深い悲しみと心の傷を癒やすために、スイスに程近いフランス・ジュラ地方の美しい山村シドートンに保養にやってくる。大好きなフライ・フィッシングを楽しみ、同宿の夫妻の子どもたちとも仲良くなったハワードだったが、戦局は急転、ドイツ軍がベルギー国境を越えフランスに侵攻したことを知る。このままでは帰れなくなる……慌ただしく帰国の準備をするハワードに、同宿の夫妻はある頼み事を持ちかける。夫は国際連盟職員でジュネーブに戻らなければならない。妻はそばにいて夫を支えたいが、子どもたちをここに置いておくわけにはいかない。ついては、幼い子どもたちを安全なイギ...
2022.12.05 04:39ジョゼ・サラマーゴ 『白の闇』 信号待ちをしている車の長い列。信号が青になった。先頭の車が動かない。後続車のドライバーたちが騒ぎ出す。窓ガラスを激しく叩き強引にドアを開けると、運転していた男は半狂乱になって叫んでいた。目が見えない……。失明は次々と人々に感染していく。彼らの目の前に広がるのは漆黒の闇ではなく「ぶあついのっぺりした白い」ミルク色の海だ……。 ”ちょっと気になる本”を紹介する「この一冊」、第1回はポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴの『白の闇』(原題:Ensaio sobre a Cegueira「見えないことの試み」)。レストランで食事中に無意識の淵からサラマーゴの頭に忽然と浮かんだ「もし、われわれが全員失明したらどうなる?」という問いから生まれた作品である。発症者とと...