第二次世界大戦がまだ膠着状態にあると思われた1940年4月。イギリスの老紳士ジョン・シドニー・ハワードは、戦争で受けた深い悲しみと心の傷を癒やすために、スイスに程近いフランス・ジュラ地方の美しい山村シドートンに保養にやってくる。大好きなフライ・フィッシングを楽しみ、同宿の夫妻の子どもたちとも仲良くなったハワードだったが、戦局は急転、ドイツ軍がベルギー国境を越えフランスに侵攻したことを知る。このままでは帰れなくなる……慌ただしく帰国の準備をするハワードに、同宿の夫妻はある頼み事を持ちかける。夫は国際連盟職員でジュネーブに戻らなければならない。妻はそばにいて夫を支えたいが、子どもたちをここに置いておくわけにはいかない。ついては、幼い子どもたちを安全なイギリスへ連れて行っていただけないか。夫妻の懇願を断ることができず、ハワードは子どもたちを連れて出発する。ナチスは占領地のフランス人には寛大だが、敵対するイギリスの国民とわかれば容赦はしないだろう。フランス全土がナチスに占領されるのは時間の問題だ。急がねばならない。だが、すでに鉄道は各所で寸断され、ようやく乗り込んだバスもドイツ軍の機銃掃射で立ち往生。ハワード一行は、徒歩でフランスを横断することを余儀なくされる……。
70歳の老人が、イギリスを敵視するナチスドイツ占領下のフランスを幼い子供たちを連れて横断、ひたすら母国を目指すスリリングなロードノベル。主人公は老人と幼い子どもたちだから、派手な格闘シーンや銃を撃ち合う場面は微塵もないが、次々に降りかかる困難や窮地を、知恵と力を振り絞って切り抜けようとする老人の姿に、思わず手に汗を握る。タイトルは、童話『ハーメルンの笛吹き男』(原題:Pied Piper of Hamelin)からとったもの。本作にも、老人と子どもたちをつなぐアイテムとして笛が登場する。
作者は、核戦争の勃発で汚染された地球で滅びるのを待つ人々を描いた1957年発表の名作『渚にて』(原題:On the Beach)で知られるイギリスの作家ネビル・シュート。すっきりしたシンプルな文体でいずれの作品もリーダビリティが高いが、何より1942年発表の本作が第2次世界大戦をリアルタイムで描いた作品であることに、驚きを禁じ得ない。
女性や高齢者に連れられて避難するウクライナの子どもたちや核兵器使用を仄めかすロシアの指導者の発言を巡る報道に日々接するわたしたちにとって、ネビル・シュートの作品が「現在」をもリアルに描いていることを、わたしたちはどのように受け止めれば良いのだろう。そんな暗澹たる気持ちが救われる、思わず胸を衝くエンディングが秀逸である。
0コメント