新年度が始まってもう早ひと月、気がつけばゴールデンウィークも目前だ。年度の変わり目というのは、これといって特別忙しいことがあるわけでもないちっぽけな古本屋のおやじにとっても、どこか慌ただしく、時間の過ぎるのが早い。
長く教員をしていたせいか、四月はお正月よりも新しい年の始まりという感覚が強く、気持ちも改まる。だから年度末はなるべく俗世から身を隔て、溜まりに溜まった閻浮(えんぶ)の麈(ちり)を落として新年度に備えたい。そんな思いから、三月末は伊豆の修善寺に籠もるようになった。かれこれ二十年近くになる。
修善寺というと、空海開湯の伝説を持つ屈指の名湯で、鎌倉幕府の権力闘争に敗れた者たちの終焉の地としても知られる。そのうちのひとり二代将軍頼家は、温泉街の中央にある名刹修禅寺に幽閉された後、幕府の放った刺客の手に斃れた。『愚管抄』などによれば、頼家は膂力に優れ比類なき武芸の達人であったため、討手は頼家が丸腰になる入浴中を狙い、さらに確実を期すため湯に漆の汁を仕込み、かぶれて体中が腫れあがったところを討ち取ったという。修禅寺の宝物殿には、発疹と腫れで倍以上にふくれあがった頼家の断末魔の顔を写したとされる怪異な木彫りの面がある。劇作家岡本綺堂はこの面に着想を得、戯曲『修禅寺物語』を書いた。岡本綺堂といえば、コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズ』に刺激を受けて『半七捕物帳』を書いたことで知られる。同作はいわゆる捕物帳ものの嚆矢であるばかりでなく、日本のミステリーの先駆的な役割をも果たした名作である。『修禅寺物語』も、のちに綺堂自身の手で小説化された。ちなみに同作の戯曲は岩波文庫をはじめ各出版社のものがあるほか、青空文庫にも所収されており、小説版は光文社文庫で読むことができる。
その岡本綺堂が『修禅寺物語』の取材と執筆のために逗留した宿がある。明治五年創業の新井旅館である。この宿がまた、すこぶる良い。初めて宿泊したときに、年月を積み重ねた建屋の落ち着いた風合いとそばを流れる桂川のせせらぎの音にすっかり癒やされ、以来、ここが修禅寺での私の常宿になった。なんでも、三代目館主相原沐芳が東京美術学校(現東京芸術大学)で絵を学んだことから、安田靫彦や横山大観ら芸術家との交流が深く、その縁で芥川龍之介や島崎藤村、川端康成、初代中村吉右衛門ら多くの文人墨客が訪れたという。館内ほとんどの建物が国の登録有形文化財で、宿泊した部屋の床の間に「島崎藤村宿泊の間」と記された木札がさりげなく置いてあったりするのも興趣をくすぐるが、なんといっても一番は「天平浴堂」と名付けられたお風呂である。総檜造りで、伊豆石の巨岩を使った岩風呂は創建当時のまま。シャワーもカランもなく湯桶だけを使うこの古風な浴場は、安田靫彦の設計で、高い天井からは安田や芥川らとも親交の深かった鋳金工芸家香取秀真の手になる巨大な燈火がさがる。
この三月もまた、伊豆の湯に浸かりながら、芥川がスケッチに残したのと同じ小窓越しに鯉の泳ぐさまを飽かず眺め、二段に積まれた巨岩のてっぺんにあぐらをかいて火照った身体を冷ましながら、瞑想にふけってきた。至福のひとときである。
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