一味爽涼

 若い頃は夏が好きだった。何よりまず身軽なのが良い。外出するのも、ジーンズにTシャツ1枚、サンダルで事足りる。革製の小さなベルトポーチに文庫本を一冊、煙草と使い捨てライター(あの頃は煙草を吸っていた!)、左の尻ポケットに財布、右にハンカチを入れて、夏の強烈な陽射しもものかは、いつでも、どこへでも行けた。これが、近年はどうもいけない。極暑、炎暑、厳暑などなど、さまざまに言い連ねてみても言い尽くせない暑さに閉口して、エアコンで不自然に冷やした部屋に引きこもる。寒がりなものだからもともと冬が苦手で、季節の変わり目は気温の寒暖差に身体がついていかず、要するに今では年中気候に悩まされるようになった(暑さより歳のせいかもしれない)。そんなわけで、今夏は遠出を見合わせた。お盆行事を済ませ、ちっとも客の来ないお店をまじめに開け、エアコンをフル稼働させて籠城して過ごす、というつまらない夏になった。そこで、9月になったら少しお休みをもらってどこかへ骨休めにいこうか、という話になり、パートナーと相談した結果、行き先を軽井沢に決めた。

 以前本欄で、年度末は毎年伊豆の修善寺で過ごすと書いたが、実は夏の軽井沢も長らく我が家の恒例行事だった。クラシック音楽が溢れ、白い紫陽花の花が咲き乱れる広いお庭のある素敵なペンションを常宿にしていて、目的の半分はそこで過ごすことだった。雷雷という名の人なつこい老いたグレーの縞猫のいるリビングにはピアノがあり、自由に弾けた(私はからっきしだが、パートナーが少々嗜む)。優しくて、豊富な知識と教養に裏付けられたお話が魅力的なオーナーご夫妻は、興が乗れば、夕食の際にチェロやクラシックギターを演奏して下さったり、ナイトキャップにこっそりワインを振る舞って下さったりした。3年前、ご夫妻がペンションを廃業されたのをきっかけに、軽井沢から足が遠のいていた。

 久しぶりの軽井沢は、雨だった。駅に降り立つとさすがにひんやりしたが、気温は少し高めで、宿ではエアコンを入れた(軽井沢、おまえもか!)。

 しばらくご無沙汰だったので、かねて贔屓の場所やお店を巡る旅になった。滞在中は毎日立ち寄っていたジェラート屋やパートナー御用達のアクセサリーのお店など、閉店していたところもあって残念だったが、豆腐料理のフルコースが食べられるN屋、1日10食限定のフレンチトーストが楽しみのカフェSは健在、姉夫婦の紹介で小さな油絵を購入したご縁で通うようになった画廊をたずねて旧知のギャラリストの方と久しぶりにおしゃべりに興じ、雨をよけて駅近くのショッピングモールでウインドウショッピングをした。

 軽井沢に通い始めて2年目か3年目のころ、森閑とした木立の中を散歩していて偶然に小さなギャラリーを見つけて立ち寄った。オーナーはテキスタイルの作家さんで、もとは司祭館だった建物をご自身のアトリエと作家仲間の作品を展示するギャラリーにしている、とのことだった。初めて訪問したにもかかわらず、旦那様ともども快く歓迎して下さって、お茶やお菓子をいただきながら、話が弾み、大変楽しいひとときを過ごさせていただいた。以来、軽井沢に行った折には必ず訪問して、博識の旦那様の、軽井沢にまつわるお話を聞くのが楽しみだった。ずいぶんとご無沙汰していて、あの頃も毎年とはいえ年に一度のことだったし、きっともうお忘れに違いない、とパートナーと話していたのだが、何のことはないしっかり覚えていて下さって、変わらずに歓迎して下さった。今回の夏休みの、最高のひとときだった。

 遠方へでかけたときには、地元の古本屋訪問を試みるのが常だが、旧軽井沢にはショー通りを入ったところに豊島書房がある。書架の間の床が、うずたかく平積みにされた書物の山で埋め尽くされていて、軽井沢のおしゃれなイメージにはほど遠い雑然とした雰囲気が何とも好もしい。残念ながら今回はお休みだった。そのかわりに、シェア型古書店が2件もできていて驚いた。本欄で何度か紹介したように、私はシェア型古書店の草分けみつばち古書部が古本活動の原点なのだが、この経営型式による古書店文化の広がりには舌を巻く。一件は、東雲交差点を旧軽方向に少し過ぎたところにある「森の本屋」。おしゃれで明るい店内に約80程の箱が並んでいる。ここは純然たるシェア型で、本、ZINEのほか、雑貨やアナログレコードを置いている。先ほど紹介したテキスタイルの作家さんの箱もあった。「森の本屋」から少し北に行ったところにあるのが「QカルBooks」。こちらは古本も扱う新刊書店さんで、棚の一部に箱貸しのコーナーがあった。こちらも旧軽らしい素敵なお店で、音楽関係の本が充実しているように思った。それから、駅裏のショッピングプラザ内に「PAGES」という「日本初のアウトレット専門ブックショップ」なる書店ができていた。あまり時間はなかったが、せっかくのなので各店舗をめぐって、数冊購入した。次回の楽しみが増えた。

 二泊三日の旅程の間ずっと雨模様で、最終日は土砂降りになった。いつもならレンタサイクルで軽快に回るところを、今回は傘をさして歩いた。それはそれで風情があったのだが、1日二万歩は老体には少々堪えたらしく、帰阪して二人とも少々体調を崩した。歳を考えないといけないね、と二人でしみじみいたわりあった。

 ゆっくりするつもりが、妙に慌ただしい「一味爽涼」の旅になった。でも、これをきっかけに、きっと良いことが続くような気がしている。なぜなら、行きがけ、新幹線を乗り換えるのに東京駅で降りたら、到着したホームの向かい側に、引退したと聞いていた、目撃すると幸せになるというあのドクターイエローが停まっていたのだから。



秋めく雲場池


森の本屋1


森の本屋2

森の本屋3


森の本屋で購入


森の本屋で購入


Pagesで購入


東京駅に停車中のドクターイエロー!

ヴィスナー文庫

時間がゆったりと流れる 公園のそばの癒し空間