年明けに旧年の振り返りをしてから、およそ5ヶ月になる。「ここだけの話」の、相変わらずのペースといえばそうなのだが、実をいうと、あれから少々忙しかったのだ。
梶井基次郎や織田作之助をはじめ、庄野潤三、阪田寛夫など、阿倍野区ゆかりの文人は少なくない。そのなかに伊東静雄という詩人がいる。伊東静雄は、昭和4年から戦後の昭和22年まで、旧制住吉中学(現住吉高校)などで国語科教員として教鞭をとりながら詩作を発表し続けた人物である。当店にご来店のお客さまにお尋ねする機会があっても、ご存じの方に未だお目にかかったことがなく、残念ながらあまり一般には知られていない。しかし、第1詩集『我がひとに與ふる哀歌』発刊に際し、日本近代詩の父ともいわれる萩原朔太郎に「日本に尚一人の詩人があることを知り、胸の躍るやうな強い悦びと希望を覚えた」と評されたのをはじめ、三島由紀夫やノーベル文学賞の大江健三郎、芥川賞作家庄野潤三や野呂邦暢らに激賞された優れた詩人として文学史に名を残している。私と伊東静雄の出会いは、古書販売に関わるようになって、阿倍野区にまつわる文学作品や作家、文学者を紹介した「阿倍野文学散歩」なるZINE(パンフレット程度のお粗末なものだが)を作成した折に、伊東静雄について紹介したのがきっかけである。伊東静雄は引っ越し魔で、阿倍野区阪南町から共立通あたりを転々としており、戦時中の昭和11年には堺東の田出井山古墳(伝反正天皇陵)の近くに疎開している。同地域には現在、歴史遺産を生かしたまちづくり活動を行っている「けやき通りまちづくりの会」というボランティア団体があり、伊東を地元の文人として敬愛し、忌日である3月12日にちなんで毎年3月に伊東静雄を偲ぶ「菜の花忌」を実施していて、今回で16回目を迎える。
昨年の暮れ、現役時代の職場の元上司から連絡があり、実はけやき通りまちづくりの会主催の「伊東静雄菜の花忌」で行われるトークセッションのコーディネーターを務めることになったので、その打ち合わせにカフェスペースを利用したい、と連絡をいただいた。貸し切り利用は大歓迎なので、喜んでお迎えし、大いに盛り上がったまではよかったのだが、予定されていたスピーカーのお一人が都合で参加できなくなったことが判明し、まんざら伊東のことを知らないわけではないのだから、お前、代わりに出ろ、ということになって、急遽わたしがトークセッションのスピーカーに加わることになってしまったのだ。
困った。他のスピーカーの方々は皆さん文学研究者であったり、詩作を教えている方だったりするなかで、わたしはお粗末なパンフレットをつくっただけのど素人である。せめて足を引っ張ることなく、催しの品位を傷つけないようにしなければならない。次回の打ち合わせは年明け1月に決まり、発表原稿の提出期限も定められ、それから準備に没頭した。当日基調講演をされた下定雅弘博士の伊東静雄に関する論文を二本読み、メンバーに勧められた詩人で評論家の青木由弥子氏の大著『伊東静雄―戦時下の抒情』(これほど分厚い本を読んだのは久しぶりである)を読み、庄野潤三や大江健三郎の作品を読んで勉強した。当日は緊張のあまり何度もとちってご迷惑をかけたが、メンバーの的確なフォローと聴衆のあたたかいまなざしに救われ、なんとか無事に終えることができたのだった。
大江の短編集。このなかの「火をめぐらす鳥」は伊東静雄の詩「鶯」に触発されて書かれた短篇。
伊東静雄との交流について描かれた庄野の作品。『前途』は小説作品である。
野呂と同郷(諫早)の詩人伊東について書いた随想がある。
三島はデビュー作『花ざかりの森』出版に際し、伊東に推薦文を依頼するために住吉中学を訪ねたと聞く。
わたしは古書店経営の傍ら、学校司書として週に2日、小中学校の図書館のお手伝いに行っている。「会計年度職員」という身分で、一年契約だが三年間は希望すれば続けることができる。この春、勤め始めて三年目を迎え、改めて選考試験を受けることになった。基本的には面接選考なのだが、応募時に定められたテーマについてレポートを提出しなければならない。一応司書の資格はもっているものの、専門家としてのキャリアがあるわけではないので、準備もせずに書けるわけがない。そこで、テーマに関する論文をネットで検索して数本読み、各地の学校図書館での実践例を調べてなんとか書き上げた。その時期が、先ほどのトークセッションの時期と前後したのである。おまけに、新年度から勤務先が異動になり、新しい職場環境に慣れるのに少々時間を要する、という事情も重なった。
ゴールデンウィークが近づき、昨年パートナーが転倒して橈骨遠位端骨折してからほぼ一年が経った。骨折のせいで昨年は断念せざるをえなかった恒例のカンボジアフェスティバルの舞踊発表に参加するために、思い切って3日間お店を閉め、上京した。パートナーは昨年の雪辱を果たし、わたしは神保町や高田馬場、谷中から根津あたりの古書店を巡り歩いて、それなりに堪能したのだが、時節柄もあって東京は大変な人混みで、お店の営業の合間の行き帰りも体力的には少々こたえた。「寄る年波」である。帰阪後すぐ、一年前の手術で手首に埋め込んだ骨をつなぐ金属板を取り出すパートナーの手術があり、わたしも付き添った。簡単な手術なのだが、高齢者の場合、取り出すのがよいのか無理せずそのままにする方がよいのか、なかなか判断が難しいらしく、ずいぶんと迷っての決断だったので、少々心配した。幸い杞憂に終わり、痛みも短期間でおさまって、経過は頗る順調である。
そんなこんながあって、気がつけばもう六月の声が聞こえていて、ヴィスナーカフェ開店一周年も、もうすぐ。何かできればいいなぁと考えている、今日この頃である。
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