丘の上の古城プロミネンス城が見おろすイギリスの平和な田舎町コブに、不気味な男がふらりと現れる。背が人より頭一つ高く、まるで死人のように痩せて、着ているものはすべて黒。重厚壮麗なプロミネンス城をなめるように見あげるその男の名は、コンラッド。ロンドンの著名人からの紹介で、町一番の大富豪ヒル一族のお屋敷専属料理人として雇われたのだ。彼が作り出す、舌もとろけんばかりの得も言われぬ美味しい料理は、すっかり屋敷の人々を魅了する。しかも不思議なことに、コンラッドの料理を食べ続けると、太った人はみるみる痩せ始め、痩せた人は次第に太り始めるではないか。おまけに、料理だけでなく巧みな話術を駆使し、家事、雑事もそつなくこなすコンラッドの前に、使用人たちはおろか、雇い主のヒル家の人々も、言うがままに……。やがてコンラッドの料理は、ヒル家に対抗する分家ヴェイル家の人々にも影響を及ぼしはじめる。コンラッドは、果たして天使か、悪魔か。その企みとは……。
怪奇ミステリー、ホラーファンタジー、ピカレスク!? ジャンルの何とも判別のつきにくい、ブラックユーモアに彩られた奇妙な味の風変わりな小説だが、緻密で高度な文章力が光る。全編衝撃を受けっぱなしで一気読み必至の、本棚に間違いなく残る快作(怪作?)である。
そもそも「食」をテーマにした小説は枚挙に暇がない。近作では、高田郁『みをつくし料理帖』、群ようこ『かもめ食堂』、小川糸『食堂かたつむり」、近藤史恵『タルトタタンの夢』など映像化された人気作品も多い(個人的には、直木賞候補にもなった深緑野分『戦場のコックたち』がお薦め)。翻訳物では、ヴァン・ダイン『ベンスン殺人事件』やレックス・スタウト『編集者を殺せ』などグルメ探偵が活躍する古典的な作品が知られ、アガサ・クリスティにも名探偵ポアロが美味しい料理に魅了される短編集『クリスマス・プディングの冒険』がある。また、料理を主題にしていなくても、「食」にまつわるエピソードが随所にちりばめられて独特の雰囲気を醸し出している作品もある。ハードボイルドの古典的名作ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズでは主人公の凄腕探偵スペンサーが恋人のために料理をするシーンが随所に出てくるし、池波正太郎の『剣客商売』に登場する剣豪秋山小兵衛は大変な美食家である。ちなみに、池波正太郎は自身も大変なグルメで、在りし日に通いつめた老舗の名店を著書にも綴っている。少々脱線するが、池波の通ったお店を巡ってみるのもおもしろい(馬場啓一『池波正太郎が通った〔店〕』)。東京のお店が多いが、大阪ではうどんの道頓堀今井、天ぷらの北新地天富、おでんのたこ梅、京都では白味噌の汁物で知られる河原町の志る幸、蒸し寿司の乙羽、三条寺町のすき焼きの名店三嶋亭などが知られる。
閑話休題。今回紹介する本作は、美味しいものが人々をなごませ、心を穏やかにし、場合によっては生きる活力を生む、といった先述の一連の作品群とはおおいに趣を異にする。「食べる」という行為の罪深さ、「食」がいかに人間の奥深い欲望に根ざしたものであるか、まさに「美食の毒」をあますところなく描いた作品なのである。
作者のハリー・クレッシングは、プロフィールをいっさい公表しない覆面作家としてこの作品を発表したため、謎の作家として、女流ではないか、ロアルト・ダールの別名義では、など、さまざまな憶測を呼んだ。Wikipediaでは、本名ハリー・アダム・ルーバー、アメリカ生まれでロンドンに移住、本業は弁護士・経済学者だったとしている。クレッシングは本作で世界的な名声を得たが、その後発表した中編2作はとくに評価されなかった(絶版だが邦訳版『今夜ロズのパーティにでかけるの?』が出ている)。
この奇妙な味の作品を、ぜひご堪能いただきたい。衝撃的な幕切れを、みなさんはどうお感じになるだろうか。
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